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シャンディ教授とクリスマス [読書]


クリスマスツリーが飾られる時期になると、シャーロット・マクラウドの『シャンディ教授シリーズ』の一つを思い出します。(マクラウドはカナダ生まれのミステリー作家で何種類かのシリーズ物があります。)

主人公のシャンディ教授は大の世間嫌いで孤独好き。クリスマスシーズンが近づく度にゆううつでたまらない。世間がクリスマスではしゃいでいるのが目障りでたまらない。しかも教授の家の近所では数年来、家にクリスマス・イリュミネーションを飾るようになってきた。シャンディ教授は見ないようにして我慢しているのだけど、最近ご近所のご婦人方から、シャンディ家にもクリスマスの飾りをするよう、うるさく催促されるようになった。毎年、何とか言い逃れをしてきたけど、もうだめそう。ご近所との関係もこれ以上悪くしたくない。それで彼はどうすればいいか考えた。
クリスマス前に飾り付け業者に家を飾るように頼みました。飾り付けを始めた家を見て、ご近所から「まあ、シャンディさん。やっとあなたもクリスマスを美しく飾ってお祝いする気になったのね。」と喜ばれたのです。イリュミネーションが点灯する前夜、シャンディ教授は南の方へ休暇を過ごすために旅立ちます。

シャンディが去った後、クリスマスイリュミネーションがタイマーで点灯されました。そのイリュミネーションの派手派手しいこと。屋根には巨大なトナカイとサンタの像がまぶしく光り、家の壁という壁は豆電球がギラギラと点滅している。1時間ごとにクリスマスソングが大音響で流れる・・。タイマーは夕方から翌朝まで作動するようになっていたもので、最初は喜んでいたご近所さん達は、真夜中になっても、ぎらぎらピカピカ光りが点滅し、クリスマスソングがジャンジャン流れる家の前に集まり、さてどうしたらいいのだろう。シャンディさんは休暇でいないし、何とか電源を止められないかと必死になったのでした。
(ミステリーはどんなお話だったかすっかり忘れました。題名も・・。10年以上前に読んだので。)


池田晶子著「新・考えるヒント」 [読書]


「ロゴスに訊け」に続いて「新・考えるヒント」を読んだ。池田晶子の、読者にこれを何とか伝えたい、という強い感情が伝わってくるような文章である。
本を読んで考えたり感じたりしたことは、その人の血となり肉となるなどと言われるけど、私の場合はどんどん忘れてしまって、とてもそうは思えない。10年ぶりに読み返したりすると、初めて読んだみたいに驚いたりするのだから。
で、読書メモをとっておく事にした。そうすれば本屋であれこれ読みたい本を探さなくても「あの本もう一度読もう」と簡単にできるはず。

「新・考えるヒント」はあとがきにあるように、小林秀雄を敬愛する池田晶子が小林著「考えるヒント」に向き合って書いた謂わば「考えるヒント」の鏡のような本、だと思う。これは一度読むだけではもったいない。さて、いざ覚え書きを書こうとしたら、不可能、ということに気がついた。
池田晶子は言う。「文は人なり、言葉は私のものでないからこそ私をあらわす。小林がその魅力的な文章によって語ろうとしていること、その内容のみ抽出し、小林秀雄の文章の論旨、人はその宿命を生きるしかない、などと繰り返してみたところで、何の面白いことがあろう。」・・なるほど何か本や文章の要点を書くなんてことは無意味なことだ。
でもまあ、どんな本だったか自分が思い出すための手がかりのために、少し引用しておく。そうでないとすっかり忘れてしまいそう。

「観念か、現実か、思想か実生活かなどというのは、無邪気な子供の戯れ言である。考えるということは、生きるということを考えることなのだ。そうではないか。逆に、生きるということは、考えることを生きることなのだ。」

「歴史とは、かくかくのものだと人に教えてもらえるような性質のものではない。それは、考えるほどに、自分が生きるというそのことと重なる。それならばそれは、生きることによって考えられるより他はない。他人と議論している暇はない。」

「私はよく、理屈はきらいだと言って、笑われることがある。・・あるいはこの件についてご意見を、と聞かれてたいていは言葉につまる。意見というものを、もったことがないのである。わかりきったことのようでいて、あんがい注意されないことだが、考えるということは、もしそれが正しく行われるならば、理屈をこね、意見をもつということとは、正反対のことである。」
意見というものは、思惟のごく一片を取り出し非常に単純化されたものに過ぎないということだろう。特にインタビューなどは、「一言で」が求められる。AですかBですかを聞くようなテレビ番組が無意味で、それどころか有害なものになてしまうのはこのためだろう、と思う。

と、少し抜き書きしたけど、他の人が読んだら何のことかあまりピンとこないかもかもしれない。私は自分のメモなので、これで思い出せるだろう、と思う。


J.K.ローリングの魔法 [読書]

この厚さ

ハリーポッター7巻(完結編)の発売日を記念して。
J.K.ローリングは本当にすごい人・・・。シングルマザーで生活保護を受けて
子供を育てていた。エディンバラのカフェで子供を見ながら、何時間もハリーポ
ッターを書き続けていたという。
エディンバラはいかにもハリーポッターのストーリーが生まれそうな古い街だ。
ロンドンからエディンバラへ向かう列車はキングズ・クロス駅から出ている。
あの大きなドーム天井の駅のベンチに座って、サマータイムに切り替わったこと
を知らず、待っていた列車に乗れなかったことを思い出す。駅の大きな時計はサ
マータイムになっておらず、とんでもない時間を指していた。待っていた列車が
とっくに出てしまっていたことに気がついたのは、1時間も過ぎてからだった。
きつねにつままれたような不安な気持ちだった。
ハリーが毎学期、ロンドンからホグワーツ魔法学校へと出発するあのキングズ・
クロス駅は駅は本当にまるで魔法がかかっている雰囲気がある。

「ハリーポッター」は子供向けの本のようだけど、実はそこらの純文学や○○賞
受賞作品など吹っ飛んでしまうパワーある小説、と、本の虫であった私は思う。
もし「ハリーポッター」が、子供向け、とか流行りもの、とか思って敬遠してい
るとしたら(私もそうだった・・)本当にもったいない。
映画で判断するのもだめ。映画で主役を演じる子役達(今や若者?)は、とても
魅力的だけれど、それは小説とは関係がないこと。「ハリーポッター」は小説と
して完璧すぎて、映像は完全に負けてしまう。ホラーとオカルトとドタバタとメ
ルヘンがごちゃまぜになってしまった映画は、小説とは別のものを楽しむつもり
でいないとね。

7月21日の最終刊の発売日は、世界各国の本屋さんに愛読者が殺到。21日の
午前0時に売り出しだったそうで、友人は9時すぎに本屋に大勢人がいるので何
事か、と思ったそうだ。(アメリカのシアトルでの話)
アマゾンに注文した私の本もふくろう便ではないけれど、フライングせずにきっ
ちり21日に届いた。
英独米で24時間に1130万部が売れたそうだ。ロンドンの大手書店の店員さ
んは1秒当たり15冊さばいたという。シリーズ第6巻までの売り上げは64カ
国で3億2500万部というから、途方もない話だ。何と比べたらいいのか。

「早く読みたい!」と言っていた人がいたが、私は逆だ。この楽しみはそう簡単
に終わらせたくない。1巻、2巻はさっと読んだが、3巻頃からは本を読み終え
ることを惜しみ、一日に読むページを制限した。読み終えたらまた次の巻を一年
も待たなければならないのだから。一番長かったのは5巻766ページ、6巻と7
巻は両方とも607ページ。
今回の7巻が最終刊となれば、ますますゆっくり読まなければ! 
というより表紙と序文だけしばらく眺めていることにする。

ハリーポッターは誰にでも大人気の本だけど、読んでいるときは自分だけが、こ
んなにも好きなのだと錯覚してしまうから不思議。名作というのはそういうもの
かもしれない。ハリーの、子供なのにたった一人で巨大な悪に立ち向かい戦う姿
には本当に元気づけられる。限りなくハリーに感情移入してしまう。ハリーの苦
しみに比べたら、自分の仕事の辛さなど何ほどのことがあろう、と。
もしかしたら、作者のJ.K.ローリングも、ハリーを描くことによって勇気づけ
られたのではないか、と思えるほど。

6巻で、ダンブルドア校長先生が、死んでしまったことを私はどうしても納得で
きないでいた。You-Know-Who が生きながえているのに、偉大な善の象徴が死
んでしまうはずがない、本当は生きているのではないか、どこかにヒントが隠さ
れているのではないか、と何度も読み返した。次の巻で、生きているということ
にならないかと期待もしたけど、どうなんでしょう。
感動が文の端々にちりばめられ、まるで詩のような濃密な文章には感服です。

*この文の長さ、さすが私はハリーポッターのファンですね。


天文・「137億光年のヒトミ」(鳴沢真也著)より(つづき) [読書]

本の表紙の写真天体望遠鏡「なゆた」
2m天体望遠鏡は名前を公募して「なゆた」と名付けられた。
1の後ろに0が60桁つく位を「なゆた」というのだそうだ。

今年の2月、土星とオリオン大星雲を直径7.5cmの望遠鏡で観測した。
場所は茨城県郊外。 北緯36度 東経140度、晴れ、19時〜21時。
土星はまるで絵に描いたように球のまわりに帯びがぐるっと取り囲んでいて、
球と帯のすき間まではっきり見えていた。「本当にこういう形をしているん
だ!」と、本の写真にのっていたそのままの形に感動したけど、オリオン大
星雲を見つけるのは、近眼の私にはかなりむずかしかった。
「オリオン座小三つ星のあの真中の星の周りが光って見える所が大星雲。」
と言われても、コンタクトを付けた私の目には星がにじんでいるように見え
るだけ・・「にじんでいるように見えるのが星雲だ」と言われても、よくわ
からない。雑誌の写真で確認して、やっとわかった。 今度ははっきり。
物を見るときは目だけではなく、頭も使わないとだめなのだと思った。

2m天体望遠鏡「なゆた」だったら何もかも鮮明に見えてしまうだろう。
鳴沢さんの本には、星を見て感動した人の言葉がたくさん出てくる。
「だめですよ、だめですよ。(木星が)あんなに見えちゃっていいんです
か・・。」これ可笑しいけど共感する。今までただ「星」と思ってなが
めていた物が、大きく、衛星写真で見る地球のように見えてしまったら、
人生観変わってしまいそう。
何と言っても、ほんの一瞬見るだけで、人をこんなに感動させてしまうの
だから天体観測はたいしたものだ!

天文台の仕事は天文台を動かすための仕事と、一般の人に観測体験をしても
らい天文学を教える仕事と、そのうえに自分の研究があって、昼も夜も大変
そう。でも星のためならがんばれそうな気がする。(ただし「天文学」をや
るためには数学ができないとダメなのだ・・・。)
もう一つ天文台には大事な任務があるそうだ。
SETIと言って地球外知的生命探査のこと。もし他の天体から何らかの発信ら
しきものを受けた場合は、一般の人に知らせてはいけない、と国際会議で決
まっているのだって。そして世界中のSETI研究者にすぐに連絡するように、
取り決められているのだそうだ。何という大きなロマン・・・。

それにしても関東平野の空は明るすぎる。建物や人家がない場所でもはるか
遠くの町あかりが空に白く反射している。光害のひどさを感じる。
(私の田舎では子供の頃、星は降るように見えていた。)
宇宙を覗いたときは物の見方や考え方も変わって心が大きく柔らかになる。
そしてそのうちに、生活の垢にまみれ、宇宙のことも忘れる・・・。
そうしたらまた天体観測に行こう。 この本もまた読もう。


天文・「137億光年のヒトミ」(鳴沢真也著)より [読書]


まずこの本の題名について。
海を眺めたとき水平線がある。その向こうは存在していても見えない。宇宙に
もそれ以上見ることができない限界がある。「宇宙の水平線」と呼ばれる。
地球からこの宇宙の水平線までの距離が137億年だそうだ。
中学校の学習のおさらいをすると、この世でもっともスピードが速いものは光、
1秒間に30万キロメートル飛ぶ。光は地球の周りを1秒間で7周半まわる。
この光が一年間に進む距離が一光年。137億光年というのはどのくらいの距離
か、なんて想像すらできないのです。想像不可能・・・。

鳴沢真也著「137億光年のヒトミ」は久しぶりにわくわくする楽しい本だった。
バスの中で読んでいて終点に着いても気がつかなかった。「お客さん、お客さ
ん」と何度も運転手さんが呼んでいる。一体また誰がどうしたんだろう、と思
って周りを見たら、客は私一人だった・・。「スミマセン、ぼんやりしてて!」
とあわててバスを飛び降りた。私は電車やバスを乗り過ごす、という事は絶対
にない人間なのです。
兵庫県の西はりま天文台に勤務している鳴沢さんという人の、天文学への情熱、
というより「愛」がひしひし伝わってきて、感動しつつ、笑ってしまう。
例えば、普通の天体望遠鏡は直径7.5cmくらいで、土星の輪がはっきり見えて
しまうのだが、西はりま天文台に、職員の念願が叶って、何と直径2mの天体
望遠鏡が据えられることになったときの話はほんとうに感動的。

ついにその巨大な天体望遠鏡が入る建物が完成した時の感激ぶりがすごい。
みんなで建物の前で記念撮影をして、涙を流したそうだ。
そしてフランスから望遠鏡の鏡が到着したときは、関西国際航空までみんなで
出迎え、鏡が大撫山に運ぱんされる全行程をビデオで撮ったそうだ。
大型トレーラーの後を車で追い、さらに先回りしてトレーラーが町に入る瞬間
を目で見ようと待ちかまえたという。
(真夜中です。ビデオで撮っていたのは大型トレーラーですよ。どんなに待
ち望んでいたのか、これだけでもわかるでしょう。この時のトレーラーの運
転手さんもきっと、すごく嬉しかったにちがいありません。)
午前4時に町に到着し、それから鏡をトラックに積みかえて山頂まで運んだ
そうです。トラックの他に、クレーン車や何台もの関係車両を従えて・・・。
「日本一の鏡のお通りだい!」と鳴沢さんは思ったという。

さて直径2mの鏡をいよいよ見るとき、運搬中にヒビが入っていやしないかと
全員が同じ心配をして、ふたが開けられ、ついにピカピカの鏡が現れた。
鳴沢さんは鏡に集められた太陽光を一瞬、顔に受けて火傷をしたそうだ。
この間直径30mの天体望遠鏡についてのニュースがあったけど、その鏡に太陽
光が当たったらどうなるの? ぼっと黒こげになってしまうのだろうか。
                                (続く)


終わらない戦争 [読書]


パッチギ!の第二次大戦のシーンは、過去のことでも何でもなく、日本から遠
くはなれたイラクで、パレスチナのガザで、またそれ以外のあちこちの国で、
今現在進行している状況だ。誰もそのような戦争と無関係には生きられない。
アーサー・ビナードの「出世ミミズ」というエッセイに、こんな文章がある。
「19世紀末に、マーク・トウェーンは母国を見渡して、こう書いた。『もし
データを集めて、統計も取っておけば、おそらく実証できるだろう。ーアメリ
カ特有の、この国ならではの犯罪組織は、たった一つ。それはアメリカ合衆国
である。』できるものなら100年余り経った今、もう一度トウェーンに母国
の組織の品定めとしてもらえたらなと思う。」と。
マーク・トウェインは「トム・ソーヤの冒険」「ハックル・ベリーの冒険」な
どを書いたアメリカの児童文学者です。
1947年あたりから米国はずっと戦争を続けていて、それも侵略戦争とは呼
ばずに「国防」と呼んできた。「国防のための戦争」という言葉にアメリカの
国民は、条件反射的に賛成して黙ってついていく、とビナード氏は言う。
考えてみれば、ベトナム戦争、湾岸戦争、9.11後のアフガニスタンへの侵攻、
そして今はイラク戦争(まだまだある)と、ずっと戦争をし続けているのには
驚かされる。すべて「正義のため」という名のもとに。
日本も戦争する時はいつも「正義」をふりかざした。満州に仕掛けた戦争を事
変という語でごまかしたように。
ビナード氏はこういう欺瞞に対して、小熊秀雄の詩を引用している。
アーサー・ビナード氏はアメリカ人だけど日本語で詩もエッセイも俳句も書く
すごい人です。ビナードさんが紹介してくれた日本の詩人の作品をここにも載
せましょう。 たまには格調高く・・・      (「出世ミミズ」から)

     「丸の内」           小熊 秀雄

   『戦争に非ず事変と称す』と ラヂオは放送する
    人間に非ず人と称すか
    ああ丸の内は  建物に非ずして資本と称すか
    ここに生活するもの  すべて社員なり
    上級を除けば   すべて下級社員なり


アーサー・ビナードの「もったいない話」 [読書]


「それは、古くなったからと、日本国憲法を捨てて新しいのに取り替えようとい
う動きだ。・・・今まで、『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』
本気で取り組んだ内閣はあっただろうか。古くて手垢がついたどころか憲法9条
はまだ新品同然だ。・・・」
これはアーサー・ビナード著『日々の非常口』の中に収められている「もったい
ない話」の中に出てきます。『日々の非常口』は身の回りの出来事をビナード氏
の透明感のある眼差しで見たことをまとめた楽しいエッセイ集。

初めてアーサー・ビナードの作品に触れたのは、『菅原克己全詩集』の「小さな
とものり」の英訳でした。その詩の解説を翻訳者としてビナード氏自身が書いて
います。一部紹介すると「難しいことを難しく書くのはわりと簡単な作業だ。・
・・しかし難しいことを、透明度の高い言葉でやさしく表現するのはまさに至難
の業。菅原克己の作品は、その一つの手本だ。」と。
英訳された詩よりも、その解説文の明晰さに驚嘆しました。
日本語をこんなに正確に自由に操るアーサー・ビナードは一体何者か・・と。
アメリカミシガン州生まれのアーサー・ビナードさんは1990年に来日。
詩人でありエッセイスト。

アーサー・ビナード氏がこの「もったいないもの」について日比谷野外音楽堂
4・12集会で話してくれました。
「日本国憲法は古いどころか新品、というか、まだ未使用・・」という言葉に
聴衆がどっと笑いました。
「これは世界的に見ても超一流の憲法です。それに比べると今の日本内閣は三
流。一流のものを三流に合わせようとしているのです。」の話は大受けでした。

わかりやすい話ではありませんか。すこ〜し元気が出ました。
日本人よりも正確に言葉を選んで使えるビナードさん。 全くすごい人です。

* 写真『日々の非常口』 もったいので一日2、3編だけ読みましょう。