SSブログ

ウィーン郊外・ハイリゲンシュタット [音楽]


  ホイリゲ(レストラン)         ベートーヴェンの小径
ウィーン郊外にハイリゲンシュタットという場所がある。マーラーの墓所があ
り、またベートーヴェンが作曲の構想を考えながらよく散歩した、という小径
があるというので行ってみた。ハイリゲンシュタットへはトラム(市電)で行け
る。そこからバスで5分ぐらいでグリンツイングという所に着く。
グリンツイングは小さな街でバス停の周辺に店やレストランが少しあるだけで、
あとは緑に囲まれた住宅地だ。写真はバス停近くのレストラン。ここでオース
トリア東部名物のとびきりおいしいホイリゲ(自家製ワイン)を飲んだ。家庭
料理のソーセージとキャベツの酢漬けやサラダもすごくおいしかった。今では
本物のホイリゲ酒場はほとんどなく、観光客向けのものばかりらしいが、あれ
だけおいしければ十分だ。
おいしいのは良かったがホイリゲを飲んだのがいけなかった。この年は涼しい
はずのオーストリアが猛暑で、東京は冷夏という異常気象だった。
坂を登ってやっとマーラーの墓所まで行った。マーラーの奥さんのアルマ・マ
ーラーの墓がマーラーの墓の斜め後方に背を向けてあるのが、生前の二人の関
係をなんとなく暗示しているようだった。さてその次にベートーヴェンの小径
を辿りはじめたが、あまりの暑さにフラフラして途中で断念。小径は木立や畑
の間を通る、日本の田舎のどこにでもあるような道だった。
こういう暑さの中では、ベートーヴェンも曲は浮かんで来なかっただろう。
(その当時、こんな異常な暑い日があったかどうかはわからないけど。)
オーストリアは夏が涼しいため小さなホテルや一般の家にエアコンはないのだ。
むしろ壁の中心に防寒用の材料を入れ防寒に工夫をして家を建てるようだ。

ベートーヴェンは、ドイツ(その頃は国ではなかった)のボンから都会ウィー
ンに出て来た謂わば田舎者だった。16才の時モーツアルトに師事しようとした
が母親の死で断念した。モーツアルトの死後の1803年(33才の時に)交響曲
3番英雄(エロイカ)を作曲し、それがベートーヴェンにとっては大きな飛躍
の年だったと言われている。モーツアルトも晩年、と言ってもすごく若いのだ
が、30才頃から作風に厚みが加わり32才の時に三大交響曲39番〜41番を書い
た。Kind of Blue をマイルスが録音したのも33才。このあたり天才と呼ばれ
る人になにか共通したものがあるような気がする。
ベートーヴェンの音楽は世界中の人々、著名な指揮者、演奏家、音楽研究家に
敬愛され賛嘆されてきた。ベートーヴェンの音楽をクラシックの頂点とする歴
史的評価がある。無駄のない完成された均衡美の前には、ひれ伏すしかない。

不思議なことに、私はベートーヴェンよりも先にマーラーの音楽に夢中になっ
た。小中学校の授業で聞かされたベートーヴェンの音楽を、大人になって聴こ
うと思う機会がなかなかなかった。マーラーを聴いていた私にはベートーヴェ
ンはシンプルすぎる、と感じたのだから、人の感性など当てにならないものだ
と思う。学習しなければどんなものの良さもわからないということが、遅まき
ながらわかった。本当に遅すぎた・・・。
だからこの時のウィーン詣では、ベートーヴェンではなかった。また行かなけ
れば・・・。
ホイリゲの家庭料理


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。