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2020年の幕開け 〜『動くゴッホ展』〜 [芸術]

1月9日、松本市の信毎メディアガーデンにて『動くゴッホ展』

ニュースで知って(一年の始めにゴッホはいいな〜)と急に思い立って行ってきました。
これが今年の私の初詣です!
普通の作品展とは違い映像のゴッホ。これはこれでとても楽しいゴッホ展でした。
真剣に息を詰めるように鑑賞する必要がなく、ゆったり『ゴッホの光と色の世界』に浸ることができました。やはりゴッホはいい! 今の私にとっては一番かな〜〜

(動画を撮影したもの)
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あらためて、ゴッホの光と色彩の美しさに感嘆しました。
人の眼はすごいけど、ゴッホの描く世界は人の眼をはるかに超えてしまっている。
映像によって、そのことをより強く感じることができました。
(また見たいものです。)

お昼は松本市美術館併設のビストロ・サンチーム
(仔羊のワイン煮)とても美味しかったです1100円
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(お土産にキラキラ光るチョコレート)IMG_7551.jpg
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キエフ・クラシック・バレエ<チャイコフスキー夢の3大バレエ名場面(7月覚え書き) [芸術]

2017年7月16日14:00〜  長野市ホクト文化ホール

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(第1部)
    「くるみ割り人形」
    「白鳥の湖」
(第2部)
    「眠れる森の美女」


2014 年ローザンヌ国際バレエコンクールで優勝した二山治雄の凱旋公演。
(2016年の白鳥バレエ団発表会にて、二山治雄の素晴らしいバレエを見て以来)

その年によってダンサーのインパクトの違いがあるけれど、ローザンヌで優勝するということは本当にすごいことだ。ちなみに今年2017年のローザンヌの優勝者ミケーレ・エスポジートも驚異的だった。


今回の二山君は昨年よりもさらに成長していて、
「眠れる森の美女」の王子役で、洗練された完璧なバレエを披露した。小柄な身体がステージでとても大きく見え、気品があった。
安定した正確さを基にした、伸びやかで自由な踊り。
登場する度にオーラがステージの上に振りまかれる。

ぎりぎりで購入したチケットは2階の一番後ろで、双眼鏡で見ていたのだけれど、二山君の踊りの素晴らしさは充分にわかった。

今後もチャンスがあれば見たいと思う。

それにしても、白鳥バレエ団というのはたいしたバレエ団だと思う。
本当に古くから、長野市近辺の小さな市にもバレエスタジオがあり、スタジオなどという立派な建物ではなく、公民館の一室みたいなところでも地道にレッスンを行っていたりした。地域の子供たちにとっては楽しい場所だったと思う。
そういう活動を見ていたので、ローザンヌ優勝者が出るなんて夢のような気がする。
(2002年には竹田仁美さんが同コンクールでエスポワール賞を取った。)

世界への扉というものは、どんな活動にも開かれているものだと感じた。
そんなことふだんは誰も気がつかず、思いもかけないことで、でも、
こんな風に突然世界の檜舞台に出るということがあるのだ。

きっと、血の滲むような努力の結果なのでしょう。


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シルヴィ・ギエム<ライフ イン プログレス> 〜東京バレエ団全国縦断公演2015〜 [芸術]

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シルヴィ・ギエム Life in Progress

2015年12月18日(金)東京文化会館 大ホール


<Program>

イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド
  上野水香、 奈良春夏、 柄本 弾、 河合眞理、 
  川淵 瞳、 入戸野伊織、二瓶加奈子、 原田祥博、 三雲有里加

ドリーム・タイム
  吉川留衣、 川島麻美子、 政本絵美、 松野乃知、 岸本秀雄



テクネ
  シルヴィ・ギエム

  パーカッション;プラサップ・ラーマチャンドラ  
  ビートボックス;グレイス・サヴェージ
  ヴァイオリン、ヴォイス、ラップトップ;アリーズ・スルイター

デュオ2015
  ブリーゲル・ジョカ、  ライリー・ワルツ

ヒア・アンド・アフター
  シルヴィ・ギエム、  エマヌエラ・モンタナーリ



バイ 
  シルヴィ・ギエム


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3階2列目10番から見るステージ

とても遠いが前の人の頭も見えずステージを真っ直ぐに見下ろせる席だった。
もちろん双眼鏡を使用。
双眼鏡で見るのはけっこう疲れるけど、双眼鏡から目を離すことができなかった。
全体的な動きの美しさは肉眼でもわかるけれど、一本一本の指の細やかな動きや、ダンサーの圧倒的な表現力の一部である表情は、双眼鏡なしではわからない。
回りに双眼鏡を使っている人はあまりいなかったけれど、せっかくの機会なのに!と、とてももったいない気がした。

クラシックバレエは一般に、ダンサーの表情は、「微笑み」あるいは「悲しみ」を現しながらも常に端正なので、表情そのものはそれほど気にせず身体全体の動きを観ていればいいのだけれど、
コンテンポラリーでは表情がとても大事な役割を担っていることもあることが良くわかった。それと指の動き。
ダンサーの身体は、細部に至るまで表現力を持っているため、これを見逃してはおおざっぱな印象で満足するだけになってしまう。

テクネはとても印象深く素晴らしい作品だった。
手足をつき背中を丸め這いつくばって動くギエム・・すくっと、少女のように、まるで空間に浮かんでいるように立つギエム・・しなやかで強靱な筋肉を使って踊るギエムは、性別や時代や地理的空間といったものを完全に超えた存在だった。

デュオ2015は男性2人、ヒア・アンド・アフターは女性2人で、この二つは一対になっているように思えた作品だった。二つともバレエの既成概念を打ち破るようなステージだった。
クラシックバレエは伝統芸なのでおきまりの枠の中で美しさを見せてくれるのに対し、現代バレエはクラシックの枠をかなり飛び越えて自由に表現する踊りだと思うが、自由と言っても、ある種の「保守性」があり、そこがいつも気になってしまう所だった。
テクネ、デュオ2015、ヒア・アンド・アフターはその「保守性」をあっさり蹴飛ばした作品だと感じた。

そして最後の「バイ」。
振付マッツ・エック、音楽はベートーヴェンのピアノソナタ第32番第2楽章
こんなに悲しく、感動的で寂しい作品があるだろうか。
ギエムがステージに別れを告げる・・私たち観客に別れを告げる・・私たちもギエムにさよならを言う・・。
大きな歓声につつまれて。いくら名残惜しくても別れは現実のもの・・。

すぐ近くにいた人が「私、また明日も観に来るからいいの」と話しているのが聞こえた。気持ちはみな同じ。

できることなら、近い将来、ギエムの『復活』があればいいと願っている・・。

(追記)
驚くべきことだが、プログラムによると、
12月9日から14日まで、シルヴィ・ギエム ファイナルは川口、相模原、富山、新潟、前橋で、6公演。
東京文化会館でライフ・イン・プログレスが12月16日から20日まで連続5公演。
そして12月22日から30日まで再び、シルヴィ・ギエム ファイナルを西宮、高松、福岡、名古屋、広島、横浜で6公演というもの。
いくら強靱な肉体を持っているとしても、常人のできる技ではないとつくづく感じいっています。バレエダンサーは本当に凄い!

(ギエムは、30日まで日本で踊っているのですね・・)



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シルヴィ・ギエム ファイナル公演 〜ボレロ〜 [芸術]

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12月10日(木)相模女子大学グリーンホール 19:00 〜 21: 00

(プログラム)

《イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド〜東京バレエ団初演〜》

振付;ウィリアム・フォーサイス 
音楽;トム・ウィレムス(レスリー・スタックとの共同制作)
演出・照明・衣裳;ウィリアム・フォーサイス
振付指導;キャサリン・ベネッツ

上野水香 奈良春夏 柄本 弾
河合眞里 川淵 瞳 入戸野伊織 二瓶加奈子 原田祥博 三雲有里加

《 TWO 》

振付;ラッセル・マリファント
音楽;アンディ・カウトン
照明デザイン;マイケル・ハルズ

シルヴィ・ギエム


《 ドリーム・タイム 》

振付・演出;イリ・キリアン  振付助手;エルク・シェパース
音楽;武満 徹 オーケストラのための「夢の時」(1981)
装置デザインおよび衣裳デザイン;ジョン・F.マクファーレン
照明デザイン;イリ・キリアン(コンセプト)、ヨープ・カボルト(製作)
技術監督、装置・照明改訂;ケース・チェッベス

吉川留衣 川島麻美子 政本絵美 松野乃加 岸本秀雄


《 ボレロ 》

振付;モーリス・ベジャール  音楽;モーリス・ラヴェル

シルヴィ・ギエム

梅澤紘貴 森川茉央 杉山優一 永田雄大



シルヴィ・ギエムが今年で引退と聞き、必死で取ったチケットが神奈川県の相模女子大グリーンホール。
前回見たギエムの『ボレロ』は2005年12月15日、これは千葉市川市で。(もう10年も経ってしまった)
少々遠くてもチケットが取れるならチャンスは逃したくない。

S席で2列目の34番という坐席で、ギエムをものすごく間近に見ることができ本当にラッキーだった。
ホールによってはあまりに前だとステージの縁が視界を遮ることもあるけど、グリーンホールは大丈夫だった。

《イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド》
かなり長い作品でハードなもの。舞台いっぱい使ってダンサーが動くのでやはり近いと目で追うのが大変だった。
でも、東京バレエ団はすごかった。日本のバレエはどんどんレヴェルアップしている。(バレエに限らず、「表現」というものが常に進化し続けているということなのだろう。)

《TWO》
カーテンが開き、暗闇の中にぼんやりと、ギエムの姿が浮かび上がっている。大きい。
照明がまずギエムの手を浮かび上がらせ、そして徐々に徐々に全体像が現れる。
女神としか言いようがない、ギエムの姿。
音楽に合わせて動くギエムの背中や腕の筋肉の一筋一筋が見える。
生命を持った彫像とでも言ったら良いか。
赤味を帯びた照明が、くるくる動くギエムの手がまるで扇がひらひら舞っているような効果を出している。足先も大きな円を描く。
ギエムが創り出す人間の身体の最高の美。

「ブラボー!!」の歓声に応えてカーテンの間からするりと現れたギエムの笑顔は、これまたとびっきりの美しさで、観客からは「キャー!」という悲鳴かため息か・・。
本当に、本当にこんなにステージに近くで見られる幸運を感謝!

《 ドリーム・タイム 》

いつも聴いている馴染みの深い「武満 徹」の音楽なので、とてもリラックスして舞台の雰囲気全体を楽しむことができた。
音楽とバレエ(舞踊)は固く結ばれているので、音楽が自分の好きなものであるということは嬉しい。

《 ボレロ 》

これが見納めだと思い、半分は悲しみながら舞台に見入った。
「ボレロ」はジョルジュ・ドン、そして20世紀最高のプリマと称せられたマイヤ・プリセツカヤが有名だ。マイヤのビデオを持っているが、40代のマイヤ・プリーセツカヤはそれは美しく、ビデオの映像からでさえ最高のオーラを放っている。
ギエムがその二人に並び立つ。

ギエム一人に目を奪われて「ボレロ」は終わった。
何度も何度ものカーテンコール。
みんな総立ち。カーテンの前のシルヴィ・ギエムから私の間はほんの3mほどしかない。
1列目の人たちが花束を持って駆け寄っている。「そうか、この席は花束を渡せる席だったか」と思ったけれどもう遅い。
でも何度もコールに応えて姿を見せてくれるギエムの足元まで駆け寄った。
(一生に一度だからね、もう恥なんか捨てて・・)
そして、なんと握手までしてもらえた。しっかりと・・!
ほっそりとしなやかな手だった。

夢のような夜。わざわざ神奈川まで行って本当に良かった。
すごいものを観たり、聴いたりすると、ふだんの生活のつまらない悩みだの不満だの、すっかり消えて新しく蘇ったような感覚が湧いてくる。

この夜が「幻だった」と、終わらせないために、今週の金曜日12月18日に、再びギエムの公園を観に行く予定になっている。
今度は東京文化会館。2週続けて贅沢すぎるのでは・・?という気もしたけれど、ファイナルは一回では心の中で完結するのは難しい。
今度はステージからは離れた席でギエムの姿をしっかり目に焼き付けて来ようと思っています。

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日展三山ー東山魁夷、杉山寧、高山辰雄ーとドラッカー・コレクション [芸術]

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(信濃美術館にて)

8月17日、ドラッカー・コレクション(水墨画)と日展三山と言われる東山魁夷、杉山寧、高山辰雄の展覧会に行って来ました。

<ドラッカー・コレクション>

水墨画というのは近いようで遠い。
身近な所でよく見かけるので漠然としたイメージはあるものの、「水墨画」を美術館でしっかり観るのは初めてでした。

今回展示された111点は、経営学の父と呼ばれるピーター・ドラッカーが長い歳月をかけて収集した、室町時代の山水画、江戸時代の禅画や文人画など200点あまりのコレクションのうちの111点。

ドラッカーが水墨画になぜ惹かれたのか。
水墨画とは何かを知るために、画と共に展示されているドラーーカーの言葉を丹念に読みながらの鑑賞でした。

ピーター・ドラッカー(1909年〜2005年、ウィーン生まれ)はナチスの台頭により、1933年ロンドンに脱出し、ロンドンの銀行で勤務。
ある時、にわか雨にあい雨宿りのため偶然入った場所で日本美術展覧会が開かれていて、そこで見た水墨画に強く感銘を受けます。その後アメリカのワシントンに移住し、仕事の合間に日本美術コレクションがあるフリーア美術館に通い続け、水墨画への憧憬がますます深まっていきました。
第二次世界大戦が始まろうとしていた時で、「水墨画を見ているときだけが正気を取り戻した」と述べています。
それから25年後の1959年に初来日。
以後何度も来日し、少しずつ少しずつ30年もの歳月をかけて水墨画を集めたそうです。

一体、水墨画の何がドラッカーの心を捉えたのか。

(ドラッカーの言葉を引用すると)

「印象派は人々に『見せよう』とし、表現派は『知らしめよう』とするが、水墨画は『知らせ体験させようとする』」
「日本の山水画は見る者を招き入れ、むしろ入ることを望んでいる」
「日本の山水画家は、『人は自然の中で生き、自然は人ぬきでは完全ではない』としている」

水墨画に描かれるのは、岩、山、樹木、人家、船、橋、そして人の姿・・
なるほど、そう思ってよく見ると、高い山に松の木を背景に豆粒のような大きさで、船をこぐ人、橋を渡る人などが描かれています。
この小さくも実在感のある人物が画の中にあるため、まるで別の世界を覗き込んだような気持ちを起こさせるような気がします。

濃淡の墨を使い分け、無駄な線を一切そぎおとした画は、西洋画の世界から見たら異次元の世界として見えただろうと思います。

ドラッカーは、西欧と中国と日本の絵画を比べ、
西欧の絵画は幾何学的構図であり、中国画は代数的(均衡を重視)であり、
日本は、トポロジカル(位相幾何学的)であると述べています。
「まず線をひくのではなく空間を見る、全体的な形態をとらえる、すなわち『デザイン』である」と。

コレクションの中では、室町時代の作品、柴庵の『柳燕・竹石鶄䴇図』、海北友松『翎毛禽獣図』、立原杏所『葡萄図』が心に残りました。
つまりわかりやすかった、ということですが。

水墨画、山水画、文人画で困るのは、漢字が読めないということ。
題名も、また絵の中に書かれている文字も、読めそうで全く読めないのがつらいものです。


<日展三山〜東山魁夷、杉山寧、高山辰雄>

東山魁夷館では館の25周年記念として、日展の三山と呼ばれる東山魁夷、杉山寧、高山辰雄の作品が展示されていました。
実は東山魁夷の絵も、画集やカレンダーなどで見るばかりで、本物を見るのは初めてでした。
これは感動しました。
「こうだったのか!」という驚きと、「やはり凄い」という感動。

お馴染みの絵の大きさも知らなかったわけで、レコードやCDで知っている曲の生演奏を一流のオーケストラで初めて聴いたようなものです。
音楽でも絵画でも、まったく知らないでいきなり触れるのと、多少の知識があってはじめて本物に触れるのでは、感動の大きさが変わってくるという気がします。
もちろんドラッカーのように、「日本の水墨画を見た瞬間、私にとって特別なものであることがわかった。」ということもたくさんありますが。

三山の展覧会というのは、それぞれの個性が、三山が並ぶことでさらに際立ち協奏し合い、展示室全体が不思議な力に満たされた空間になっていました。
この3人は生まれた年が数年しか違わず、3人の芸術大学の卒業制作が並んでいました。
東山魁夷『焼嶽初冬』(1931年)、杉山寧『野』(1933年)、高山辰雄『砂丘』(1936年)。
圧倒的な、才気ほとばしる作品で、若いときにもうその才能というのは現れてしまうものなのだとあらためて思いました。

覚え書きとして、強いて好きな作品を2つずつ挙げるとしたら、
杉山寧では、『穹』『孔雀』、高山辰雄『少女(1979年)』『星辰』、東山魁夷『冬華』『白馬の森』。

ドラッカー・コレクションと日展三山を見るのに途中休憩を入れて三時間かかりました。
たまにはこういう日があってもいいものです。

信濃美術館は回りの環境が素晴らしく、外に出ると、松の並木(まるで東山魁夷の『松庭』のような立派な松)とその後ろに青く見える山々、城山公園の花と噴水、善光寺の塔など・・絵の鑑賞でぼーっと疲れた目と頭を休ませてくれるのにふさわしいものでした。

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ドラッカー・コレクションは8月23日で終わりましたが、日展三山は9月1日まで開催しています。

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チューリッヒ美術展〜国立新美術館〜 [芸術]

六本木 国立新美術館  (2014年12月15日)
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そろそろ今年も終わり・・、そういえば最近美術館に行ってなかったと気がつき、チューリッヒ美術館展を観に行った。
ずっと行きたいと思いながらなかなかチャンスがなく、ぎりぎり最終日だった。


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お馴染みの巨匠達の作品がずらりと並んでいて、日常生活から別世界へとつかぬ間の旅。

(特に印象に残った作品、覚え書き)

<モネ『睡蓮の池〜夕暮れ〜』(1916/1922年)>

壁いっぱいに睡蓮の池が広がる。あまりに大きいので茫洋としてどうやって観ていいのか。晩年のモネは失明しかけていた。この作品は描き始めて途中で断念したものを、再び気力をふりしぼって描き上げたと言われている。
他の『睡蓮』の作品とはかなり違う趣がある。モネの家の庭には大きな睡蓮の池があって、この睡蓮の池を200点も描いている。


<ドガ『競馬』(1885年?)>

今から130年も前の作品ということになるが、現在の競馬とほとんど変わらない馬と騎手の姿。踊り子と馬、共通点はあるかもしれない。


<ゴッホ『サント=マリーの白い小屋』(1892年)>

小さな作品なのに、展示室の中で、空の青色と小屋の壁の白色が異彩を放っていて、人目を惹きつける。さすがゴッホだ。


<セザンヌ『サント=ヴィクトワール山』(1902/1906年)>

セザンヌは一番好きな画家なのだが、瑞々しい筆致はやはりすごくてため息が出る。サンレミからエクス・アン・プロヴァンスに向かうバスの中でこのサント=ヴィクトワール山を見たことがあるが、美しい山に囲まれた日本に住む我々にとっては、何の変哲もない岩山に見えた。セザンヌが描くとすごく印象的な山になってしまう。

<ルソー 『X氏の肖像(ピエール・ロティ』(1906年)>

有名なお馴染みの作品。
ルソーが亡くなったときに、親交のあった詩人アポリネールが、ルソを追悼する文を書いていて、音声ガイドから流れるその文の愛情あふれる口調(「やさしい、やさしいルソー・・」で始まる)に感銘を受けた。アポリネールの言葉によって、絵がさらに活き活きと現実感と輝きを増す。


<ムンク『冬の夜』(1900年)>

オスロのフィヨルド。
暗くて寒いこの絵は、観ているだけで凍えてくる。これが冬の現実。


<ココシュカ『プットーとウサギのいる静物画』(1914年)>

これは初めて見た絵だけれど圧倒された。
プットーはアルマ・マーラーでウサギがココシュカ。
この頃って、絵描きだの詩人だの作曲家だの、同時代にこんなに天才偉才が揃っていたことに驚く。
そういう時代だったのだろうか。


<ブラック『暖炉の上のギターと生物』(1921年)>
<ピカソ『ギター、グラス、果物鉢』(1924年)>

この二つはよく美術の教科書などに載っている有名な作品。
本物を二つ並べて鑑賞できるなんて贅沢すぎやしないか。

<クレー『スーパーチェス』>
 
クレーの色彩には何とも言えない魅力がある。


<モンドリアン『赤、青、黄のあるコンポジション』>

見事な平面分割。
縦横に横切る黒い線も微妙に幅が異なっていて、「ウ〜ン」という感じ。
他のコンポジション作品と並べて眺めてみたい。


<シャガール『パリの上で』『婚礼の光』『戦争』>

シャガールの大きな作品が勢揃い。
愛と涙、悲哀・・作品が放つエネルギーに圧倒される。

<マグリット『9月16日』(1956年)>

小さなこの絵に描かれている一本の木、その真ん中に三日月。
これはとても馴染みのある風景。
樹と月はよく似合うのだ。


<ジャコメッティ『広場』>

対象と向き合ってイメージを創り上げていくうちに、その対象物はどんどん小さく凝縮されていく。それは何度やってもそうなる・・とジャコメッティの言葉。
『広場』は小さいのに無限の空間と時間が感じられ、何度も何度も振り返らずにはいられない作品だった。


かなりの作品に満足と疲労を感じながら出口のギフトショップへ。

ここで観た作品のカレンダーが1500円で売っていたのですぐに買い、あとはマグネット。さんざん迷ってモネの『陽のあたる積みわら』とルソーの『X氏の肖像』にした。
安いのだからたくさん買ってもよかったけど、もう家にはあちこちの美術館で買ったものがたくさんある。
今は物を増やさないことがモットーになっているので、ここは我慢。

それにしてもカレンダーは凄かった。
家に帰って棚にただ置くだけで部屋の印象が変わる。
表紙はモネの『睡蓮の池、夕暮れ』で、美術館の壁いっぱいの巨大な絵がぎゅっと小さく凝縮されている。
カレンダーでさえこんなに存在感があるのだから、本物の絵が部屋にあったらどんなにか凄いことだろう、と思う。

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フェルメール光の王国展 [芸術]

『フェルメール・センター銀座』にて  5月1日
ライブラリ - 11365.jpg「小路」一部

リ・クリエイトと呼ばれる複製画なのだが、とても良かった。特殊な技術で原画を再現している。360年も経ればどうしても絵の具は変質し色もあせるが、この複製は描かれた当時の色彩を分析し再現しているというのだから、技術の進歩はまったくすごい。
これまでに日本、オランダ、パリ、などでフェルメールを何度も見たが、フェルメールの全作品37点が一度に見られるのはここだけ。まったく豪華である。

何よりも嬉しいのはかなり近づいて見ることができるし、写真もOK、つまり安心してリラックスして名画を鑑賞できるということだ。
海外から日本に名画が来ると、たいていは長蛇の列。絵の前は人だかりで隙間からやっとのぞきこむようにして前の人が進んでくれるのをじっと待ち、ようやく目の前にしても次の人のことを気にかけながらなので、ゆっくり見ることができない。
大体が、名画を見るために人が押し寄せギュウギュウ並んで見るという状態が気恥ずかしいから、どうもうまく鑑賞できない。
それに見ている絵が何億、何十億もすると思うと、絵の値打ちがぶっとんで理解不能になってしまい、おちおち見ていられない気がする。

写真OKなので絵の一部を撮ったりしてみた。

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「デルフト眺望」
絵を半分ずつ左右別々に撮ってみた。

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お馴染みの「牛乳を注ぐ女」の一部

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左は「天文学者」 右は「地理学者」

モデルはレーウェンフックではないかという説があり、なんとなくそうなのかな、と思えてしまう。レーウェンフックは英王立協会へ発送した顕微鏡スケッチや自分の保存用のスケッチを画家に描いてもらっていた。その挿絵の画風がある時期から明らかに変わる。その時期がフェルメールが亡くなった時と一致しているため、レーウェンフックの挿絵はフェルメールが描いた、という説である。
レーウェンフックの顕微鏡の模型も展示してあった。
こんな小さなシンプルな顕微鏡で200倍〜500倍とは、何とも不思議。

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37点の作品を見ていると、本物を2,3点見ているときとは別の楽しみがあった。
窓と人物を組み合わせた絵が多い。楽器を持った人物の絵が多い。顔がのっぺりとしてわりと平面的な感じがする絵もある。風景画がいい。
360年も経って活き活きとしている人物・・絵の不思議さですね〜。

展示会は7月22日まで
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城山羊の会《微笑みの壁》〜山内ケンジ作・演出 [芸術]

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10月31日、下北沢『ザ・スズナリ』にて、「城山羊の会」の演劇《微笑みの壁》を観てきました。例によってどんよりと暗く薄ら寒い日でした。不思議なことに「城山羊の会」の演劇を観に行くときはいつも天気が悪いのです。雨が降っていたり寒かったり・・。
天気からして、「これから城山羊の会だぞ」と宣言してくれているようで・・。

今回はシュールな所が少し控え目で人間くさいストーリィでした。ある男と女が恋をして結婚する。結婚祝いに仕事仲間や新婦のオジさんが登場する。そこに男の妻がフツーにただいま、と帰ってきて、男の友人と観客はアレッ、この男は結婚していたのかと唖然とする。ここらが山内劇の特徴の一つで、時間を好きなように伸びちぢみ、あるいは飛び越えて話は進む。男と二人の妻、そしてその三人を取り囲む仲間やオジさんの会話がいろいろ飛び交う。会話の進行に山内ケンジの本領が発揮される。
そこで交わされる会話は、まったく誰もが日常的にやっているようなもので、でも他人から見れば、どうでもいいだろ、バカだなあ、というもので、観客はみな大笑いしている。

劇中の人物が表現する感情も我々にはお馴染みで、自分にもあり、身近にもいつも見られるから、笑いは自分に対する笑いになる。そうやって笑うことで、見ている者たちは、自分というものからすこ〜し解放されているんだろうか。

痴情沙汰だから、死ぬの殺すの、というぶっそうな話が繰り広げられる。
吹越満が演じる主人公の男が、そういう激情に対して、(もうやめてくれ、どうでもいいじゃないか・・と)「こんなことで」「こんなことで!」と叫ぶ姿に妙に共感した。

本当にどうでもいいことなのだ。誰が誰を好きになって、また別の誰かを好きになって・・・、こんなこと、ど〜うでもいいことなのだ。
なんで人は人を好きになったりするのか、時間のムダってものだ・・と気が付くまでにはわれながらかなり時間が経ってしまったけどね。

年をとって恋愛沙汰から解放されたら、おめでとう。本当にめでたい。そこから本物の人生が始まるって感じがする。
だから今回の山内劇の恋愛沙汰をを観たのは本当は時間のムダだったと言える。でも劇が終わった後の他人がどう感じたかを考えるのはちょっと面白い。
「どっちかが死ぬのかと思っていた。」なんて声が聞こえてきたりして。

今回は元の妻が去って、新しい妻と男が「秋になったら黄色のイチョウ並木を一緒に歩こう。」というようなセリフで終わった。
観客の反応は、ちょっと拍子抜け、というように見えた。どうころんでもハッピーエンドにはならないのだが、よく映画や劇で見る終わり方は、三人がそれぞれ別々の道を歩んだりする。きっとそれが公平に見えるからだろう。

でも人生は公平じゃない。どちらかが得をしてどちらかが損をする、というのが普通だ。ただし、これも一つの見方であって、別れた方が損ということは真実ではない。損だと思うから損なのだ。
どうでもいいことなら、やはりどうでもいいことで、そういうどうでもいいことに時間やエネルギーを使うのはすごくムダ。その時間がもったいない。

では時間はどうやって使えばいいか。自分の好きなこと、不快でないことに使いたいと思う。恋愛はどうしようもなく捕らわれてしまうものだけど、それは自分が好きなこと、とは言えないのじゃないか。時間を費やして執着する対象として、「人間」というのはまったくめんどうなものなのである。
今、私の頭の中は馬のことだけだな〜、馬のことなら一日中、365日考えて飽きないなあ〜、これはすごく幸せだと思います。

このとりとめのない意識の流れが、劇を観た私の感想。
登場人物のほとんどが演じる俳優さんの名前と同じでした。名前考えるのめんどうだったのかな・・?

(出演者)吹越満  東加奈子 岡部たかし  山本裕子  岩谷健司  金子岳憲
石橋けい  美浦俊輔


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《イーピン光線》〜山内ケンジ作・演出 [芸術]

<E-Pin企画10周年記念公演 + 城山羊の会>山内ケンジ作・演出
2010/02/14 下北沢・駅前劇場

悪夢と現実の重なり合いが、山内ケンジ劇の特徴。
どこからどこまでが現実でどこからが夢なのか、それと気付かぬうちに観客は二つの世界に連れて行かれさまよっている。ふと「あ、これは夢でしょう」と気がついたりする。
それにしても近頃は現実と悪夢の境目がはっきりしない世相だ。こんなこともあり得るだろうという思うことが多いから怖い。しかも現実の方が悪夢より怖いということもある。夢はさめればやれやれだが、これが覚めない現実となると・・?
こんなことを考え、いつも寒々とした気分になる。

芝居と現実の境目もかぎりなく近くなっているのが現在社会という気もする。人が普通に送っている生活がなんだか芝居じみている。山内劇を観ているとそのことを強く感じる。劇場に座っていることからしてそれは日常生活ではなく意図的に自分が作った状況(つまり芝居っぽい)なのだが、開演前に回りの客席から聞こえる会話が、芝居じみて聞こえて苦痛になったりする。この日も後ろから聞こえる若い女性の、鼻にかかったゆっくり語尾を伸ばす話し声になぜか心を鬱いだ。現代人は話し方さえテレビだかなんだかの影響を受けているのかと。

劇の始まり・・登場人物の一人に携帯電話がかかってきて電話で話をすると、その場にいるみんながなんとなくバッグの中を探って、それぞれ自分の携帯を見る場面があった。これは、まぎれもない現代病。現代人はしょっちゅう携帯を確認している。こういうところが山内ケンジのすごさだ。芝居の中に見たくない現実が現れてくるからイヤになってしまう。劇中の至る所に風刺が利いていて、最初はみな面白がってハハハと無邪気に声を上げて笑っているが、そのうち疲れてくる。救いのないストーリィに疲れてしまう。

劇が終わったときまず人がやることは携帯電話を確認することだった。あっちでもこっちでもみんな座席で携帯を見ていた。開演前に携帯の電源を切っているから、オンにしたのだろうと思うが、何も劇が終わってすぐに電源を入れたりメールを見たりすることもないだろう。終わったとたん、というのが何とも言いようがない。

山内劇を見終わったあとは、厳しい現実にダメ押しされた感じが強まる。
では、見終わって幸せな気分になる劇というのは可能なのだろうか。とてもむずかしいのではないか。いっとき、バラ色気分を味わっても劇場から離れれば厳しい現実に向き合うことになり、バラ色は簡単に灰色に変わるだろう。しばらく幸せ気分が続くならまだしも、1分と持たないとしたら何の意味もない。終演後にぱっと携帯電話を取り出す観客の変わり身の速さは救いようがない。
だとしたら、絶望のまま、突き落としておくほうが人のため。
現実をより客観的に見るために劇というものがあるのかもしれない。若い人は見た方がいい。
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山内ケンジ作『新しい男』 [芸術]

『新しい男』〜城山羊の会〜

作・演出:山内ケンジ
出演:三浦俊輔 石橋けい 初音映莉子 山本裕子(青年団)岡部たかし 
木村荘平 古舘寛治(青年団・サンプル)
三鷹文化センター 2009年7月1日

三鷹は太宰治ゆかりの地。そのため今回の脚本は太宰治をテーマにしたものになったそうだ。生誕100周年ということで太宰治、桜桃忌が話題になっている。
過去の記憶に埋もれていたが、久しぶりに太宰治を読んだ頃のことを思い出した。
太宰治の鋭い人間観察に共感するとともに、渦巻きのように内へ内へと向かっていく暗い雰囲気に嫌悪感も覚えた。太宰は自分の文学の世界の中で完結しているように思えたが、読んでいる側にとっては(私は)、共感するものが多ければ多いほど、だからといってここに留まっているわけにはいかない、嫌悪感に埋まってちじこまっているわけにいかない、自分の世界をなんとか探さなきゃ、という思いがした。

山内演劇を見るのはこれで4度目。「新しい男」は『新しい...シリーズ』の3作目になる。(前作は「新しい橋」「新しい歌」)
山内ケンジが描き出す人間像はユーモラスだが、その可笑しさは、人間の愚かさや醜さをリアルに表現していることによるもので、見終わった後は「ああ、これじゃ人間は終わりだな」「どうしようもないな」と深い憂鬱感を覚える。
こんな異常なことあり得ないでしょ、と思いつつ、でも登場人物がすぐ身近で見かける人物にあまりに似ているように見えるから、ものすごいリアリティを感じて救いようのない気分になってしまう。
そういう意味では太宰治をテーマにしなくても、もともと山内作品は人間の哀れな性を描くことにおいて太宰治に通ずるところがあるようだ。

役者さんたちは全くもってすごい。どこにでもいる人間の特徴を鋭くつかんで見事に表現するので、劇中の登場人物のそれぞれに典型的な日本人のタイプを見てしまう。あ、こういう人いる、この人は誰かに似ている、という具合。
あまりに役になりきっているから、前回の劇で演じた役者さんと同じ方だとわからなかったほどだ。一回だけなら演じてもいいかもしれないが、公演の間毎日ああいう人物になりきって演じる、というのは気が変にならないものだろうか、と、そんな心配をしたいほど役になりきっている。役がその辺で見かけそうな平凡な感じである分、負荷が大きいのではないかと思う。

始めから終わりまで笑える所が多かったためか、山内作品でいつも味わう見終わった後の胃がねじれるような憂鬱さは今回の作品では少しやわらいでいたが、
劇の最後に読み上げられるセリフ、『人間失格』の「第一の手記」の冒頭部分、
<恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。>
で、しぃーんとなる。やっぱり、太宰治のこの2行はすごいなあ。
ところで「人間失格」の英訳は'No More Human 'なのだが、英語の方が身もふたもない感じだ。<もはや人間にあらず>だなんて。

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