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『馬の瞳を見つめて』(渡辺はるみ著) [読書]

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久しぶりに「馬」の本を読んだ。
著者の渡辺はるみさんは、三重県で生まれ愛知県育ち、岐阜大学農学部獣医学科2年の夏休みに馬の生産牧場でアルバイト兼実習をし、そのまま馬の魅力にとらえられて、大学を中退し、現在、北海道日高競走馬生産牧場で働いている方だ。(イグレット軽種馬フォスターペアレントの会に毎月2回執筆 2男2女の母)
   
第1章の「犬と猫と馬と生きたい」というタイトルを見たとき、これは12才頃の私の夢だったなぁ、と感慨深かった。私の場合は「馬と犬と鳥と」だったけど。猫も大好きだが、鳩を飼っていたし、猫族は鳥にとってはまずいだろう、という理由で、「馬と犬と鳥と暮らす」ことを夢見ていた。
動物が好きな私は、本で見る、昔の日本の家屋にあった曲屋(馬屋と居間がつながっている)というのにすごく気を惹かれ、曲屋のさし絵を見ては想像をふくらませていた。
決定的に馬に恋いこがれるようになったのは、メリー・オハラ著『愛馬フリッカ』を読んだとき。この本には子供ながら深く感動し、その後も馬が主人公の小説を探し回って読み、毎日馬の絵を描いて遊んだ。
残念ながら私があんなに好きだった『愛馬フリッカ』は何度も読み返しているうちにボロボロになってそのうち捨てられたのか、なくなってしまった。
最近、どうしても読みたくなって書店を探したがあるはずもない。ネットの古書販売でようやく見つけたが値段は6000円以上もしていた。

さて、私の牧場一人暮らしの夢は長ずるにつれいともはかなく消え去った。馬が病気になっても自分で医者に運んで行けない、死んだら一体どうやってお墓をつくるか・・など考えて、子供心に、「馬のような大きな動物を飼うことはできない」と思い、あきらめた。

渡辺はるみさんのすごい所は子供の頃の夢に着実に自分の力で近づいていったところだ。動物が好きだったけど獣医学部に進むなどとても不可能に思えたし、自分一人きりで動物たちと暮らすことを夢想していた私には、牧場という所で働いてみることさえ思いつかなかった。
私の世代の田舎のたいていの子供は、みな人見知りで、大きな夢はひっそりと胸にしまいこんで、自分の道を切り開くなんて度胸はなかった。中にはそういう事ができた人もいるけど、一般にみなもっとずっと地味で無欲な青春時代だった。

『馬の瞳を見つめて』は、私が子供心にこれは自分には不可能と感じさせた問題、馬の生死に向き合うことが書かれている。厳しくも喜びに満ちた牧場生活、馬との出合いと別れ、そして外に出した馬を最後にひきとってその死をみとる、それはやはりものすごく難しい生活だった。
大好きな馬と暮らす道を自分で切り開いていった著者の行動力にただ感嘆するばかり。
動物の世話、生死をみとること・・これらは相当な覚悟がないと関わっていけない。どんなに好きでも関わらない方がいい、と臆病な私はあきらめたのだ。
そうして時々馬に乗って、少しだけ馬との世界をのぞいている。
もしも馬を飼えたら「フリッカ」という名前にしようかな、など空想も・・。
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猫〜ミステリアスな生き物(3) [読書]

IMGP5979.jpg新聞の上に座る

猫は人が何かに集中している気配を察し、非常に興味を示す。
(もっともこの好奇心は年とともに減ってきてしまうのだが・・)
新聞を床に広げて読んでいたりすると必ずやってきてその新聞紙の上に座ってしまう。紙に字を書いていたりすればがまんできないらしく手を出してくる。郵便受けの中身を出し、立ったままダイレクトメールを選り分けながら重要そうな書類を読んいるとパッと背中によじ登ってくる。

マイケル・W・フォックスが『ネコのこころがわかる本』(朝日文庫)の中に<今こうやって書いている原稿用紙の上に、私のサムが座りこんでしまった。ネコというやつはどうして人が仕事をしている紙の上にのりたがるのだろうか・・・・・ステファン・ガスキン博士は、その著書『もう一つの講義』の中で、『一人がエネルギーを放出しもう一人がそれを受け取っているとき、ネコはそのエネルギーの流れに閉講に横たわる。ネコにはエネルギー場やその方向を感じとる能力があるのだ』といっている。>というくだりがある。
私は、ネコも人間の子供と同じように、大人(あるいは飼い主)が真剣になっているものに好奇心を示すという共通点があるのだな、と何となく思っていた。「擬人化」は無意味なことが多いけど、何といっても種は違うとは言え、同じ哺乳動物なのだから。
しかも幼い場合に、動物は種を超えてより近い行動を取っているのだと感じている。

自分自身を振り返ってみても子供の頃の感性は特別なものに思える。今となってはおぼろげで、やっと思い出してみるが、何か人ごとのような気がする。
この間風邪をひいて寝込みようやく回復してきて本でも読んでみよう、という気分になった。マルセル・エーメ/岸田今日子・淺輪和子訳の『猫が耳のうしろをなでるとき』(ちくま文庫)という童話を読んだ。まだ、子供の頃のように童話に夢中になれるものだろうか、と思いながら・・。
夢中にはなれなかったがけっこう面白いと感じた。そして子供の頃の感性をすこ〜し思い出せたような気がした。カバー装画は佐野洋子で独特な雰囲気だ。昔だったならこのさし絵を見ただけで興奮しただろうな、と思う。
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年を取るということは、知恵はつくかもしれないが、いろいろな経験を積み重ねることで物事に感動する力が失せることなのだ。ネコも年を取ればたいていのことに無反応になってくる。10年も生きるとこの世にはあきあきしてしまうのかも知れない。
そういうわけでうちの15才の茶トラ猫はめっきり好奇心がなくなり、眠っているか食べ物をねだるか、甘えてくるかで、のんびりだらりとして生活を送っている。
白黒猫はまだ4才だから、活発に行動し、人の集中していることに興味を示しせっせと探索している。外の様子も見たがるし、おもちゃで一人遊びをしている。
IMGP1001.jpg「さあ、かかってこい!」
遊びに誘うポーズ。誘われているのは私。

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引き出しを開けておもちゃをくわえ急いで隠し場所にもって行く。
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猫〜ミステリアスな生き物(2) [読書]

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(山城隆一の表紙絵とうちの猫)
リリラン・J・ブラウンのミステリー「ココ・シリーズ」に登場するココとヤムヤムは雄と雌のシャム猫だけど、うちのチャーとタムタムは二匹ともオスなので、すごく仲が良いというわけではない。それでも留守番のときは寄り添って眠っているから、まあまあの仲なのだろう。
猫二匹いるとそれぞれの癖があり愛情表現もそれぞれである。
白黒ねこタムタムはいきなり私の背中に飛び乗ってくるのが好きだ。不意をうってくる。立っているところに飛び乗ってくるのだから当然私の背中にはひっかき傷が絶えない。たまによじ登れずにずり落ちたりすると背中の傷も増えてしまう。しばらくおんぶしてやってから降ろしてやる。
茶トラ猫のチャーはもう15才なので以前は私とよくかくれんぼをしたり追いかけごっこをしたりしたけど、今はもう少しおだやかになった。
ココは自分たちの就寝時間を過ぎるとそれとなく客に時間を思い出させ退去を促すが、猫は実に正確な体内時計をもっているようだ。うちの茶トラは決まって12時15分前になると、机に向かっている私にそっと自分の頭を押し付けてきて、手や足をペロペロなめ始める。「もうそろそろ寝る時間ですよ。」と言っているのだ。私は寝る前にちょっとだけ(ほんの2分間)ストレッチをするが、茶トラ猫はこれがはじまると側に来ておもむろに自分も伸びをし、前屈をするわたしの脚と身体の間にするりと入る。そのまま前屈を何度かすると猫をつぶす形になるが、これが嬉しいらしくゴロゴロ言っている。白黒ねこは近くでこれをじっと観察している。
いよいよ私が布団の中に入ると、私の足元の居心地の良さそうな位置を二匹が取り合ってすもうをはじめる。どったん、ばったん、これは毎晩の儀式だ。

IMGP1154.jpg「警戒」

工事のため今ベランダに出すときはひもつきの首輪をつけて他所にいかないようにしているが、これもすぐに覚えてしまい、首輪をつけると仕事気分になるようで、じっと外を観察している。そう言えば夏の終わりはいつもセミを捕まえて部屋にくわえてきてしまうが今年はそれをやらずにすんだ。
猫の口から生きているセミをそっと取り出し、放してやるのは私の役目。セミはすぐに死んでしまうのだろうけど・・。

リリアン・ブラウンのココ・シリーズはすべて読んでいるが今年は新刊が出たのだろうか。最近本屋に行かないのでわからない。猫とミステリーが好きな人はこのシリーズ、楽しめる。謎解きが中心の小説ではないが、いつの間にか複雑な事件は解決していく。もちろん、ヒントをかぎ当て最初から犯人をわかっているのがココである。
リリアン・ブラウンの本のことを書くつもりが、リリアン・ブラウンに張り合って自分の猫の話になってしまった。猫好きな人間はこんなものでしょう。

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猫〜ミステリアスな生き物(1) [読書]

IMGP5934.jpgココ・シリーズ
(リリアン・J・ブラウン/羽田詩津子訳/カバー山城隆一 ハヤカワ文庫)

好きなミステリー作家の一人にリリアン・J・ブラウンがいる。
彼女のミステリーの主人公はクィラランというライターとクィラランが一緒に住んでいるシャム猫のココとヤムヤムで、事件を解決する鍵になるのが立派で賢く尊大な猫のココである。普通の猫のひげは48本だがココは60本のひげを持っていて、そのせいで超感覚的知覚を持っているのかも知れない、とクィララン(リリアン・ブラウンと言うべきか)は言っている。
猫に48本のひげがあるなんて思わなかったので私もうちの猫のひげを数えてみた。そんなにあるわけないと思ったけどやっぱり48本ぐらいはありそうだ。

うちの二匹の猫もココやヤムヤムと同じような行動をする。
今の所何かの事件を解決したことはないが、15歳の賢い茶トラ猫は鍋がこげついているのを教えたりする。
猫のミステリアスでおどろくべき性質はいろいろな面に見られるが、まずその我慢強さだ。
食事を催促するにも台所で立ち働いている私をじっと眺めて静かに待っている。一度ニャオ〜ンと鳴いたきりあまりに静かなので、私は猫の存在を忘れている。
そして小一時間も経った頃に、同じ場所に同じポーズで静かに私をジッと見ている二匹の愛猫に気が付く。わ〜、ごめん、という気持ちになってあわてて缶詰を開ける。ドライフードがすでに置いてあるので、お腹がすいているわけではなく、「別な食べ物をちょうだい。」という催促なのだ。こんなに辛抱強く待っていられたらサービスしないわけにはいかない。
猫は脚の一本ぐらい折っても黙ってがまんする位がまん強い、と本で読んだことがあるけど本当に猫のがまん強さには驚かされる。一度茶トラの猫が風邪らしき病気になったときも、彼は静かに押し入れの中に閉じこもった。医者に連れて行ったけど、もらった薬はすべてはき出してしまい、結局は自力で直してしまった。

茶トラは「ごはん」とか「ごちそう」という言葉を知っている。他の言葉も知っているのだろうが知らないふりをしている。「ごちそう」という言葉には勝てずにそばに来るので緊急の時には便利である。「これ何だろう?」と言う言葉にもあわてて側に寄ってくる。好奇心にも勝てないのだ。茶トラが言葉を知っているおかげで後から家族に加わった白黒のほうもだんだん言葉を覚えてきたようだ。

白黒の方はまだ若くヤムヤムに似ていて遊びたがる。大好きなオモチャがあって(携帯につけていた小さなふわふわの白キツネ)、そのオモチャに非常な熱意を見せる。「オモチャ」という言葉を知っている。オモチャを手にすると自分の前足で飛ばし、それに飛びかかり、また放り上げ、あげくはそれを両手に持ってひっくり返って足をばたばたさせ興奮している。このキツネが噛まれてぼろぼろになるのはしのびないので、途中で取り上げてバッグや引き出しにしまうのだが、何とその場所を覚えているのだ。
いくつもあるバッグの形がわかるらしい。
この間家を2日開けて帰ったら、オモチャをしまっておいた小引き出しが開けられ(その前にある写真立てはすべてはたき落とされ)中身が全部下に落ちていた。肝心のオモチャは遊んでいるうちになくしてしまったらしく見あたらない。
引き出しの前で催促して鳴くので、いっしょうけんめいに隅っこを探し、ようやくかなりよれよれになった白ギツネを見つけた。かわいそうにこのぬいぐるみは尾がとれ鼻も取れ、真っ白な毛がうすよごれてしまっていた。
IMGP5938.jpgお気に入りのキツネ
同じような白くてフワフワした物をオモチャに与えたが、こちらは気に入らないらしく興味を示さない。けっこう、キツネによく似ていて材料の毛も同じものなのに・・。
「猫ってやつは・・!」とはクィラランのよく口にするセリフだけど、まったくその通り。

カバーを描いている山城さんは本当に猫のことを知っている。ファンです。
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さようなら、ハリー・ポッター [読書]

終にハリー・ポッターのシリーズが終わってしまい、もうずいぶん前に最終巻読み終えていたのですが、J.K.ローリング女史に敬意を表し書いておこうと思います。この10年間、ハリーには本当に元気づけられたのですから。

暇つぶしにハリー・ポッター第一巻を読み始めたとき、これは子供の本じゃないか・・と流し読みするつもりでいたらとんでもなくて、子供向けのファンタジーのこのシリーズにはどれほど慰められたかわかりません。
大げさでも何でもなく、J.K.ローリンズは、人の悲しみ、恐怖、絶望、をとことん描いていて、読者はわずかな希望の光りを主人公ハリーと共に必死に探るのです。少年ハリーの孤独な生活の一日一日が、まるでいい年をした大人をも勇気づけるのだから本当に見事な本です。本を読んで、共感でき、慰められ、感情を深く呼び起こされ、胸が痛み、おまけに生きる勇気までもらえたというのは、読書でも得難い経験です。しかも10年間にも渡って。

良い本というのは、一気に読めること、また逆に少しずつ毎日20ページぐらいの読み方ができること、に象徴されるようです。途中で戻って読み返したくもなる、もったいなくて読むスピードをおさえたくなる・・これもすごい本の特徴。

第6巻で、ダンブルドア教授の死を納得できず、スネイプの裏切りに違和感を感じていた私も、最終巻で見事納得させられました。ハリーにもこれ以上の苦労はかけたくはないし、そろそろ幸せな休暇をあげるときだったのかもしれません。ハリー・ポッターシリーズの終わってしまうことを惜しんでいた気持ちが、読み終わって落ち着いたのも、J.K.ローリンズの筆致力のすごさと言えましょう。ハリーとダンブルドア教授の最後の対話は人間の存在を見据えた哲学の領域に及んでいました。

子供時代には本を読んで感動し、勇気がわくという経験を誰でも持つでしょうが、大人になるとそういうことはめったにありません。文学で同時代的に多くの人(世界中の!)の拠り所となる作品に出会えるのはもうないかも知れません。

DSCN0119.jpgキングズクロス駅
J.K.ローリングはロンドンのこのキングズクロス駅へ向かう列車の中でハりー・ポッターの着想を考えこの駅からからスコットランドのエディンバラに向かう列車が出ています。
私がキングズクロス駅でエディンバラ行きの列車を待っていたとき、ちょうどサマータイムになった日でしたが、駅の大時計は変わらないままで、私はひたすら列車を待ち、列車が出た後もまだ時計を信じて待ち続けていました。不安になり気が付いたときはとっくに列車は出た後でした。きつねにつままれた気分になったこのキングズクロス駅は、長距離列車の発着地の何とも言えない雰囲気があります。

DSCN0207.jpgオックスフォード大学の食堂
映画「ハリー・ポッター」ではオックスフォード大学がハリーの魔法学校として使われたとか。これはオックスフォードのクライスト・チャーチ・カレッジの学生食堂で、ここで教授と学生が一緒に昼食をとるというのだから、まるで映画のような話です。12時近くなると「そろそろ食事の時間なので見学は終わりです。」ときちんとした身なりのまるで執事のような係の人に言われました。実際にここで食事をしているとはビックリでした。
壁には大学の卒業生やら、教授らの肖像画がびっしり飾られ、ハリー・ポッターのお話のように、こういう肖像がの人物が絵の中から歩き回るのです。「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルの肖像画を見つけました。

DSCN0135.jpgエディンバラの旧市街
これは2001年3月の写真ですから、このときローリング女史はまだここで執筆していたのでしょうか、エディンバラのカフェで小説を書き始めたのが1994年だそうですが、エディンバラ旧市街は暗くものものしい空気がたれこめ、人を不安にさせるようなところがあり(少なくとも私にとってはそうでした)、「ハリー・ポッター」がここで生まれたのもとても自然に思えます。
このとき、私はまだ、「ハリー・ポッター」という本の存在を知らなかったのでした。

J.K.ローリングのの感性、考え方はまったくの素晴らしさ。新作短編集が近々出るそうでそれを楽しみにするとしましょう。

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2001年哲学の旅/池田晶子編・著 [読書]

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お奨め本です。
池田晶子編・著「2001年哲学の旅」(新潮社)は肩がはらず、いつでもどこからでも読める楽しい本です。
内容は、池田晶子さんですから、もちろん哲学の話ですが、永沢まこと氏のきれいなさし絵入りの旅行記が入っていて、これがスイス、オーストリア、ドイツそれにギリシャ、トルコなど、史跡ならぬ、「哲学の聖地紀行ガイド」なのです。池田さん編としてはすごく珍しいなと思います。ギリシャやトルコは行ってみたい国だし、ドイツもまだなので興味があります。
気になる哲学者の簡単な紹介もしてあって、旅心を誘いますね。

それから対談がたくさん収められていてこれがまた面白い。
哲学者との対談は三つ入っていて、一番目のH.G.ガダマー氏との対談は、最初から見事にすれ違っていて、読んでいてもサッパリわからない。終わり頃になって、池田氏「私は○○だと言いたいのです。」ガダマ氏が「私が最初に言おうとしたのはそのことなのです。」、池田氏「なんだ同じ事を考えていたんじゃないですかぁ。」・・・。笑ってしまいます。読者としては、なぜすれ違ったのか、なぜ突然一致したのかよくわからないのです。よくわからないけど、こんな風に二人の哲学者が勘違いをしながら話している様がなぜか可笑しい。それにガダマ氏は100歳、日本の若くて美人の哲学者が「何を言いたいのか」、どうも最初は真剣にとらえていなかったようにも読めるのです。

哲学者ではなく、科学の先端を行く研究者との対談も傑作です。宇宙素粒子研究の戸塚洋二氏との「『無』は存在するか?」、ウィルス研究所の畑中正一氏との「ウィルスは生物か?」、ガンセンターの池田恢氏とは「『死』は、どこにある?」。どれも面白い対談でした。でも池田氏はなんとか「存在」について語らせようとしているのだけど、科学者は「それは哲学の分野・・」とみな完全に割り切っていて、池田氏の土俵には乗りませんでしたね。
どこかですぱっと割り切って考えないと、科学者などやっていけないでしょう。

池田晶子氏本人へのインタビューもなかなか面白いものでした。「私という存在」を感じたのは池田さんが2才のとき、歩きだしたときに、自分はこうして歩いているけど、それと一緒に「私」も動いている。歩くことによって決して後ろに「私」は置きざりにはならないのだ、と思ったときだそうで、2才の子どもがそんなこと感じるものか、とまたこれは不思議なはなしだと思いました。
下世話な「池田のお悩み相談室」まであって、バスや電車の中で読むには最適の本でした。
あ、それから池田晶子傑作の「帰ってきたソクラテス」も一部分入っています。(何度読んでも面白い。)おかげでヘーゲルの倫理学も読みたくなりましたね。
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音楽のあとに読む本 [読書]


ものすごく感動的な音楽を聴いてしまったときはしばらく放心状態が続く。
かつて暇さえあれば本ばかり読んでいた私を称して「活字文化だけだ。」と言った人がいた。音楽も絵も好きだったけど今のようにめり込むほどではなかった。マーラーも聴かなかった。それが今は、音楽に感動してしまうとサッパリ本を読む気になれなくなる。夜寝る前に本を読むという儀式ができなくなる。活字が頭に入らない、受けつけない。
ハーディングのマーラー6番を聴いたあとに、何の本が読めるというのだろう。どれもこれも陳腐な言葉の羅列でウンザリしてしまうのだ。どうしてもっと詩的情緒がある文がないのだろう、と思う。
まだ読み終わってない本が山積みのままで、それどころか新しいのを買ってしまったり、わざわざ貸してくれる人がいたりするから、増える一方だ。
うつろに本の山の上を眼がさまよい、見つけた本は、吉田秀和の「千年の文化 百年の文明」だった。題名からしてもう真理を現しているではないか。
読み始めるともう一ページ目から格調高い文章が始まる。二ページ目も三ページ目も、ものすごく純度の高い文章が書かれている。1952年の文なのに光っている。そう言えば前に読み始めたときに、読んでしまうのが急にもったいなくなり、つまらないのを先にやっつけようとしたのだった。美味しい物をとっておいて後で食べるようなものだ。
でも考えてみれば、一日24時間は誰にとっても同じ、人生の長さもわからないとすれば、良い物を後回しにしていたら、すごく損なのである。今やれることの中で一番重要なことをやらなければ取り返しがつかないかもしれない。
マーラーに対抗できる本をさらに探していたら、ランボーの「地獄の季節」の詩がぴったりだと気が付いた。フランスの象徴詩人だったランボーはマーラーの6年前に生まれている。ランボーの方が早死にだったけど、ほぼ同時代だ。
ランボーの詩の中の一編、『永遠』に昔とても感動した。堀口大學訳と小林秀雄訳がある。堀口訳の方が最初に出会ったのでなつかしい。
「もう一度探し出したぞ。何を?永遠を。 それは、太陽と番った海だ。・・」
小林訳はこう始まる。
「また見つかった。 何が、永遠が、海と溶け合う太陽が。・・」

結局好きだったものに必ず戻っていくようです。
本よりも何よりもいいのは、ずーっとボンヤリとステレオで好きな音楽を聴いていることなのだけど。


「微生物の狩人」スパランツァーニ [読書]


(オランダの実験器具の骨董店のウィンドー  マグデブルグ半球 )
「微生物の狩人」の続きの話。
レーウェンフックはひたすら自分の楽しみのために顕微鏡を作った。彼の名はニュートンやフックと並んでヨーロッパに知れ渡ったが、あいかわらずたった一人でひたすら研究を続けた。あの哲学者、数学者として有名なライプニッツに宛て「私は誰一人教えたことがない。一人に教えれば次々と教えなければならなくなる。・・(教師になれば)私は一個の奴隷に成り下がってしまわねばならぬ。私は自由人でありたいのである。」と手紙を書いた。
ライプニッツは「もしあなたが弟子を育てなければあなたの技術も消滅してしまうではありませんか。」 それに対してレーウェンフックはふんという感じで、「ライデン大学の教授がレンズ磨きを雇って学生に教えようとしたが、結局学問の切り売りをやっただけじゃないか。・・こうした学問をやってのけられる人間は千人に一人もいないだろう。これは、無限の時間と、多くの金とが必要だし、絶えず考えに追い回されねばならないのだ。」と答えたのだ。
これ、学問や芸術の世界の本質です。

90才で亡くなった彼の後を継いだのは、彼の死後6年して生まれたスパランツァーニだった。スパランツァーニはレーウェンフック同様、微生物の世界の虜となるのだが、彼もまた頑固で、自説さえも容易には信じようとしないところがあり、狂ったように実験をした人だ。微生物が一体どこから生まれるのか、が大きな問題だった。
今の時代だってわからないままの問題だ。当時イギリスのニーダムの「小生物は羊の肉汁から生まれる」という説が有力となり、スパランツァーニはこの説を覆すべく、狂ったように実験を重ねて証明していった。二人の論争はアカデミーのお歴々の間のみならず、街々の注目を集め、至る所で話題にされた。スパランツァーニの実験室はフラスコでギッシリ埋まっていた。結局スパランツァーニの名が、全ヨーロッパの大学を震撼させたという。
生涯、科学事実に関して告訴だの、反撃だのを繰り返したが、単なる対抗心や名誉欲でなかく、あくまでも真実を探求したのであって、スパランツァーニはスイス人のド・ソシュールの実験を賛美し、これからも協力し合おうと誓い合った。
これについて著者ポール・ド・クライフは「彼らは戦争を誰よりも憎悪する人々だった。・・世界の最初の市民であり、最初の正真正銘の国際人であった。」と述べている。1700年代のことだ。
いつの世も、世界は真実を見ようとしない人にあふれていて、レーウェンフックやスパランツァーニのような人はむしろ狂人に見えてしまうだろう。

面白そうなものがいっぱい


レーウェンフックの顕微鏡 [読書]


(アムステルダムの骨董店、ウィンドーで番をしているのは本物の猫)

「微生物の狩人」(ポール・ド・クライフ著、秋元寿恵夫訳、岩波文庫)を読んでいる。最初に出てくるのが、微生物学の祖アントニー・ファン・レーウェンフック。350年も前の話で、ポール・ド・クライフがこの本を書いたのももう80年も前のことだが、こんなに面白い伝記本はめったにない。1930年頃、アメリカでベストセラーになったそうだが、著者の人物描写はまるで実際にその人を見るようであり、書かれた人物の生涯には度肝を抜かれる。レーウェンフックは1632年オランダに生まれ、世界で初めて『チーズにわく蛆虫』よりも小さい生物の世界を覗いた人。名誉だの名声などには無関心でひたすら湧き出でる好奇心につき動かされたレーウェンフックの90年の人生ときたら・・!!

「科学者」なんてものがまだ存在していなかった頃に、科学を志す人達が少しずつ現れた。そして「目に見えない大学」を創った。英国王立協会の始まりだった。なぜ「目に見えない大学」にしたかって、そりゃ当時は、変なこと(真実)を言うと謀反人だの異教徒だのにされ火あぶりになるかも知れないからです。彼らは「もうこれからはアリストテレスやローマ法王の言ったことは無視しようぜ。」と言ってたらしい。すごい話です。

さて、レーウェンフックは織物業の修行の後、織物店を経営しながら、ガラスを磨いて直径0.5mmに満たないレンズをたくさん作り、小さな世界を覗き続けた。もちろん、近所の人からは「頭のおかしな人」と見られ無礼な態度を取られるのだが、レーウェンフックは一向に気にかけなかった。「連中は何も知っていないのだから大目に見てやらねばなるまい・・」と。この言葉の真理には思わず笑ってしまいます。

レーウェンフックに比べれば確かに他の人間はノミやシラミや蛆虫以下の生物のことを知らないのだから、無知そのものだ。
我々は教育を受けているからえらそうに笑ってもいられるけど、学校で教えてもらわなかったら、目に見えない存在のことなど誰が考えるだろう。
ガラスを通すと物が大きく見えるからといって、自分で精巧なガラスを作って小さな世界を見よう、なんて普通の人間は考えない。そういうガラス玉を自分で作れるとは到底想像できない。ところがレーウェンフックはガラスを磨いた。毎日、毎日、何十年も・・。そして毎日レンズを覗いて新世界を発見し、たまにはサービスして近所の人にも見せてやったりもした。

とうとう彼が40才を過ぎた頃に、レーウェンフックのガラス玉のことが世間に知られるようになった。英国王立協会(正式に学会として認められるようになり、ボイルやニュートンがいた)が、レーウェンフックに報告書を出してくれるように頼んだ。レーウェンフックは学術書に使われるラテン語を知らなかったので、オランダ語で、史上もっとも大切な発見について、自分の日常のこまごましたことや近所のうわさ話と混ぜて書いて送り続けたそうだ。

科学者と芸術家は、わき目もふらず生涯を一つのことのみに注ぐ情熱と姿勢によって大変良く似ているものだと思う。この頃のオランダにはすでにレンブラントが活躍していて、レーウェンフックと同じ年にフェルメールが生まれ、フェルメールの死後の遺産管財人がレーウェンフックだったそうだ。
全くすごい時代です。
レーウェンフックの顕微鏡


ミステリー小説はトーストの味 [読書]


(ミステリアスな光り;パリのとある場所)
そう言えばシャーロット・マクラウドさんは2005年に亡くなったそうで、もうシャンディ教授には会えないと思うと淋しいです。
考えてみると私はかなりのミステリーファンだったようで、おもしろいミステリーを見つけるとすべてその作家の著書を読み耽り、これまでに愛読した著者は数えきれません。古くはミステリーの古典とも言えるシャーロック・ホームズ物、エラリー・クイーン、ヴァン・ダイン、アガサクリスティ・・から始まって現在活躍中の作家のものまで。まだ私の眼にとまっていないスーパーミステリー作家はいるのかな。最近ちょっと遠ざかっているので。

エラリー・クイーンやアガサ・クリスティの天才ぶり。数年後に読んで途中から読んだことある、と気付いても止められない。そしていよいよ大団円、「もう犯人わかってるぞ。」と思いながら、どこで読者をひっかけたか見つけ出そうと読み進む。そして、犯人がわかる。・・・ん? 思っていた人物ではなかった、と知ったときのショック、無念さ。2度も読んで2度ともだまされるなんて、本物のミステリー作家はすごい。

ミステリーの魅力は一言でいうと『トーストみたいなおいしさ』。気楽に食べられ、意外とおいしく、しかも飽きない。ストーリィだけではなく文章にトーストみたいな味わいがあるのが良い作品で、下品なもの、おどろおどろしいものはダメです。良いミステリーは格調高く味わい深いのです。
そう言えば先日松本清張の「点と線」を見ました。面白かったけどなぜか日本のミステリーは「人情もの」なのですね。エラリー・クイーンはクールです。

大体ミステリー小説は映像にすると全く別のものになってしまいます。シャーロック・ホームズやクリスティの映画はかなりハイレヴェルではありますが、それでも読むと見るではかなり違ってしまいます。
今テレビで楽しめる探偵物は何と言ってもMONK。最近BS2で「名探偵モンク」の再放送がまた始まりました。モンクは推理力は抜群ですが、極度の潔癖症で社会生活がうまくできません。他人が触ったものに触れなかったり、数字がきっかりでないと不安になったり・・。でもアシスタントのナタリーや友人のストットルマイヤー警部がモンクの弱点をカバーして、名探偵ぶりを発揮します。この一見可哀想なちょっと共感を覚えるモンクさんを見ていると、なぜか元気づけられます。


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