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音楽のあとに読む本 [読書]


ものすごく感動的な音楽を聴いてしまったときはしばらく放心状態が続く。
かつて暇さえあれば本ばかり読んでいた私を称して「活字文化だけだ。」と言った人がいた。音楽も絵も好きだったけど今のようにめり込むほどではなかった。マーラーも聴かなかった。それが今は、音楽に感動してしまうとサッパリ本を読む気になれなくなる。夜寝る前に本を読むという儀式ができなくなる。活字が頭に入らない、受けつけない。
ハーディングのマーラー6番を聴いたあとに、何の本が読めるというのだろう。どれもこれも陳腐な言葉の羅列でウンザリしてしまうのだ。どうしてもっと詩的情緒がある文がないのだろう、と思う。
まだ読み終わってない本が山積みのままで、それどころか新しいのを買ってしまったり、わざわざ貸してくれる人がいたりするから、増える一方だ。
うつろに本の山の上を眼がさまよい、見つけた本は、吉田秀和の「千年の文化 百年の文明」だった。題名からしてもう真理を現しているではないか。
読み始めるともう一ページ目から格調高い文章が始まる。二ページ目も三ページ目も、ものすごく純度の高い文章が書かれている。1952年の文なのに光っている。そう言えば前に読み始めたときに、読んでしまうのが急にもったいなくなり、つまらないのを先にやっつけようとしたのだった。美味しい物をとっておいて後で食べるようなものだ。
でも考えてみれば、一日24時間は誰にとっても同じ、人生の長さもわからないとすれば、良い物を後回しにしていたら、すごく損なのである。今やれることの中で一番重要なことをやらなければ取り返しがつかないかもしれない。
マーラーに対抗できる本をさらに探していたら、ランボーの「地獄の季節」の詩がぴったりだと気が付いた。フランスの象徴詩人だったランボーはマーラーの6年前に生まれている。ランボーの方が早死にだったけど、ほぼ同時代だ。
ランボーの詩の中の一編、『永遠』に昔とても感動した。堀口大學訳と小林秀雄訳がある。堀口訳の方が最初に出会ったのでなつかしい。
「もう一度探し出したぞ。何を?永遠を。 それは、太陽と番った海だ。・・」
小林訳はこう始まる。
「また見つかった。 何が、永遠が、海と溶け合う太陽が。・・」

結局好きだったものに必ず戻っていくようです。
本よりも何よりもいいのは、ずーっとボンヤリとステレオで好きな音楽を聴いていることなのだけど。


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コメント 4

herosia

清岡卓行の場合
「あれがまた見つかった。/なにが?ー永遠が。/それはいっしょに消えた海/太陽と。」
今すぐにさすらえとランボーは誘うが、手を伸ばせばすぐに読みたい本がある暮らしというのは捨てがたい。豚小屋のごとき我が部屋。
by herosia (2008-02-19 21:43) 

ゆき

「詩」しかありませんね。音楽に対抗できるのは・・。
削ぎ落とし、選び抜いた言葉を紡いだ「詩」には音楽的な響きがありますね。
by ゆき (2008-02-20 19:21) 

solea01

堀口大學というとヴェルレーヌの訳で「秋の日のヴィオロンのため息の・・」の超有名な対訳がありますね。懐かしい。言語を知らなくてもいい、もう別の作品の完成度、という気がする代物でした。ランボーの訳は堀口の方が好きです。
高校時代までは出身母校の大先輩の(旧制中学時代だが)萩原朔太郎や高村光太郎など結構読みましたが、近年は感性そのものが摩耗、時間もあまりないですねえ。
by solea01 (2008-02-20 20:05) 

ゆき

堀口大學は本当にすごいです。どうしてあのように訳せるものか、と思っていましたね。詩の訳というのはオリジナルの言語の音の響きを言葉で置き換えているのだと思いますが。
あまりに名訳だと、原詩とは別の力も加わります。作曲家とそれを演奏する後世の指揮者や音楽家、みたいな関係でしょうか。
by ゆき (2008-02-20 23:26) 

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